2014年6月17日火曜日

言葉の罪について


言葉を真に受ければ真に受けるほど、その言葉の罪は増していくものですが、
この度は、言葉の罪について色々と言及してまいりたいと思います。

言葉を発することが、車の運転をすることと同一の次元の行為であったとすると・・・、
果たして、ある人の、ある一言が、たしかに、人を傷つけ、時には命を奪うことも考えられる。
それが、人間が生活を営むにあたっての必要不可欠なシステムとして成立しているのが、
この、現在の地球そのものの避けられない現実となっております。

殺意を含まないつもりの言葉が、結果的に人を殺め、
殺意を含んでいる言葉が、結果的に人を操り、統括していく現状について、
その罪の重さを量刑することは、極めて困難、かつ、イタチごっこのようなタチの悪さを秘めています。

結果的に人を殺めてしまう、殺意を含まない言葉。
それは、ひとつのケースとしては、物理的現象に盲目的である場合に起こる悲劇であることが、あるように思われます。
重力の法則や、人体の肉体的構造が何も分からないまま、
脳中で物事を考えすぎる事によって、故意で無く、人が傷つけられ続けていく、という事例。
その場合のケースを阻止する為には、人と接する事よりも、まず、
3K労働と呼ばれる、「きつい、汚い、危険」を体験する事が何よりも重要であると思うようになりました。
火事が起きている最中は、はたして、火を消すことが、お金を貯めるよりも大切な事であり、
車を運転している最中は、はたして、ブレーキの度合いを把握することが、
人とのコミュニケーション能力よりも、大切なことのようです。

何をすると、人が高所から落下して死亡する可能性があるのか、
それは何よりも、自分が高い所によじ登ってみる体験が、そのままの教科書になるようです。


もうひとつの闇。
結果的に人を統括していく、殺意を含んでいる言葉。
これはこれで非常に厄介ですが、いわゆる極道は、まさしくそうなのであり、
自分の命を捨てる事が可能、という人生は、人をやたらと操作するようです。

これと対極の生き方を遂行している人にも出会ったことがありますが、
その人は、誰よりも、自分の命を大切に扱える人であり、周りの命も大切に扱える人でした。

何かを、大切にしない、という選択と、大切にする、という選択肢。

単純化すると、誰にでも当てはまる問題であり、自分自身の故意な殺意を発見しやすくなるようです。

VT句会の今回の議題は「悪」と聞きつけ、なんとなく、こんな記事を書きたくなった昨今でした。


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