2013年7月24日水曜日

句をよみたい

句を詠みたい。

私の句は、景を感じて五秒から十秒以内に浮かび終わる言葉のことだと思っている。
それを携帯でメモして、後でパソコンでワードに打ちこんで、それでおしまい。
長いこといろいろ考えていろいろ変えたりするのは、頭使うから苦手。

もしかしたら投句するかもしれないけど、しないかもしれない。
少なくとも「自分だけの句」は、投句せずに内緒にしておきたい。

表現の新古は、読み手の好みに影響を与えることはあっても、句の善し悪しの評価に何の影響も及ぼさない。だからそういうのは考えずに、好きな句を好きなだけ詠んで生きたい。

数百年後あたりに、詠み人知らずとなった自句が誰かに呟かれていたら嬉しい。

句を読みたい。

たくさんの句を読んで、よい句と出会いたい。
頭の中に、いろんな句を入れて生きたい。

青空をみつけたら、「うでをひろげてそらのまね」と叫んでうでをひろげて、
羊雲をみつけたら、「空にぽこぽこ羊雲」とつぶやいて、
老いて行く祖父をみながら、「花の名を忘れた口へ匙を運ぶ」を思い出して、
山を歩いたら、「分け入つても分け入つても青い山」と諳んじて、
子どもの成長をみながら、「あるけてあやういあんよ」と言ったりして、
秋雨に降られたら、「秋雨が骨を打つ」と格好つけて、
妊婦と出会ったら、「生まれて来る子よ腹を蹴りなさい」と話しかけたりして、
二人を生んだ女をみたら、「そのすらりとした足の間から二人も生まれた」と思ったりして(すらりとしていれば)、etc..........

そしたら、世界が輝いているような、あるいは、どうでもいいような感じがして、毎日楽しそうたい。
よい句を詠んでくださった皆さんに、感謝多謝。

ほんとはこれで十分だなと、ふと思った夏の夜の独り言でした。

4 件のコメント:

  1. 「表現の新古は、句の善し悪しに影響を及ぼさない」
    全くその通りだと思います。
    ただ鮮烈でありたいと願うことはありますが、新しさは、いつか古くなります。
    そこに価値観の重心を置くと、結局は時間との追いかけっこになって、疲れるだけ。
    私にとっての俳句とは、そういう徒労から逃れるためのもの、という一面もあります。

    いい句を読んで、自分でも作って。
    シンプルですね。

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    1. 夜中のテンションで書いたためか、少し日本語に難があります。読みがたくて、申し訳ありません。

      自由律俳人として、単純に詠んで読みたいものです。

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  2. >そしたら、世界が輝いているような、あるいは、どうでもいいような感じがして、毎日楽しそうたい。

    この境地は冗談抜きですごいと思います。私はまだまだだなぁ。
    古戸暢さんのエッセイ的なものをもっと読んでみたくなりました。

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    1. 何故かここだけ方言ですね。
      句を読むというのは、こういうことのような気がしています。

      皆さんのご意見も記事にしていただければ、面白そうです。

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