2013年3月4日月曜日

私が第十回の鍛錬句会で特選に選んでいたもう一つの句の選評です

おはようございます。白川 玄齋です。

 私は今回の第十回の鍛錬句会で、もう一つ特選に選んでいるものがあります。 

その句は、渋谷さんの

「何のおまつりかは関係ない犬がきた」

です。

 選評を書いているととても長くなるとわかりましたので、 先日 Twitter へツイートしたものをこちらにも書きます。

 以下がツイートした本文の内容です。


 (1)こんにちは。今回の鉄塊鍛錬句会で、特選として取ろうとしたものがもう一句ありました。ものすごい長文になるのでブログに選評を書かず、こちらに書きます。その句は渋谷さんの「何のおまつりかは関係ない犬がきた」です。以下、選評です。 

(2)この句で思い浮かべる情景は、お祭りで生け贄にするために大切に育てられた牛が、お祭りとは関係のない犬がふらっとやって来たのが見えて、「いい気なものだ。俺はこれから生け贄にされるのに。。。」と思う、そんな光景です。こういう風景は『荘子』の中によくありまして、 

(3)今回のたとえを用いますと、お祭りの牛は大切に育てられておいしいものを食べられるかもしれないが、やがて生け贄として死んでいく、それよりは餌も満足に得られなくても自由でいる犬の方がよい、そういう主張があるわけです。さて、 

(4)『荘子』を更に読んでいきますと、この話には続きがありまして、『荘子』は単に自由な犬の側に軍配を上げることを述べていただけなのかというとそうではないのです。この例で言うと、お祭りの生け贄の牛になるか、自由でひもじい犬になるかは自分で決められるものではなく、 

(5)運命、あるいは天命というもので決まるものであるということです。では一体、もしも荘子は生け贄の牛の立場になった場合はどうするのか、という所を考えてみますと、 

(6)「自分が生け贄の牛として生まれついたのは天命だから、それをきちんと見つめた上で、自分の進退を考えよう」と思い、次のように過ごしていくわけです。二つほど考えますと、 

(7)自分は自由な連中よりも大切に育てられ、いつもおいしいものがあるわけだから、それによって毎日毎日を楽しく過ごし、満たされた中で生け贄として殺される日を迎えよう、というのが一つの生き方で、もう一つは、

 (8)正直な所自由な連中がうらやましい。だからお祭りの時に隙を見て他の牛たちと共に脱走を試みよう、という生き方です。牛の群れの突進は時には軍隊までも崩壊させる事がありますから、 

(9)この牛の試みもそう無謀なものとばかりも言えないわけです。それでも人生の乾坤一擲の勝負であることには変わりはありませんが。さて、この両者の生き方には優劣をつけるわけではなくて、 

(10)どちらも自分の状況をしっかりと見つめ、自分の意思で出した答えなのですから、どちらが正しいというわけでもないのです。運命を見つめるとは、運命によって作られた状況に従うという意味と、改善するという二つの意味があり、

 (11)そのどちらか、あるいはそんな両極端を取らない選択肢を、自分の置かれた状況の中で主体的にしっかりと考えていく、これこそが「楽天知命」、おかれた状況をしっかり認識して、そこに安らぎを見いだすという、

 (12)言葉の本当の意味なのだと、こういう事をこの句を見ながら延々考えていました。何がよくて何が悪いではなく、自分の状況をしっかりと見つめて出した答えなら、全て正しいのだと、そう思っています。これからもしっかりと学んでいきます。(了)

5 件のコメント:

  1. >何がよくて何が悪いではなく、自分の状況をしっかりと見つめて出した答えなら、全て正しいのだと、そう思っています。

    現実的に考えて、運命に従わなければならない時と、逆らわなければならない時が、私の人生でもありました。
    全てが正しい選択だったかどうかはまだわかりませんが、
    最後の最後には、自分の選択を自分で認められるようになりたいですね。

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    1. >藤井雪兎さん

      おはようございます。温かいコメントをありがとうございます。
      私も運命に従っている部分とそうでない部分とがあります。

      私が好きな『易経』の言葉に、「節」の卦の解説部分の、
      「苦節(くせつ)は貞(てい)なるべからず」
      というものがあります。

      これは人生の苦しい時期に、ただ道理を守って日々折り目正しく
      過ごしているだけでは、苦難の時期を脱することは出来ない、
      という意味の言葉です。

      この言葉から、ただ日々を正しく生きるだけでは、
      決して活路が見いだせないということが分かります。

      私もこの言葉をしっかりと理解してから、
      更に身を入れて学ぶようになりました。
      私も自分の今までの選択にはまだ答えは出ていませんが、

      諸葛孔明の言葉、「死而後已」、「死して後(のち)已(や)む」、
      死んでからやめる、つまり「生きている限りは努力を続ける」
      という言葉を座右の銘にして、今日もしっかりと学んでいきます。

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    2. こんばんは。
      特選とはありがとうございます。
      玄齊さんが、拙句に見たものは、自由な犬とお祭りの牛だったのでしょうか。
      ここまでの深い読みはただただ恐縮であります。この評を読んで僕が思うことそれは、人間誰しも考えて生きなければならないと言うこと。今こうして自分があるのも、なんらかの形で決断をしてきたからですよね。その結果として今があり、今後も続く…そしてそれは死まで続くと言うこと。僕なんかはフッと息抜きしてしまうこと当たり前なんですが、玄齊さんは、今まさに真剣勝負をしている。刹那に生きているのだと痛感しました。ほんと良い評を頂けたと思います。ありがとうございました。

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    3. >渋谷さん、

      こんばんは。温かいコメントをありがとうございます。入院中にいつも『荘子』の疑問のある一節と格闘していましたので、そのことを思い出していました。

      『荘子』の「秋水(しゅうすい)篇」の中で、楚の国の王様が家臣を使いに出して宰相になって欲しい旨を伝えた時、釣りをしていた荘子はこう言いました。

      「あなた方の国には三千年前に死んだ亀の神様がいて、楚王は布に大事に包んで祀っているそうですね。でも亀の側からすると、殺されて死後にいつまでも祀られるよりも、生きて尾を泥の中で動かすような環境の方が幸せなのではないですか?」

      そう言って荘子は仕官をはねつけた、という話があります。

      私がこの文章に疑問を持ったのは、荘子が本当に書いていたであろうとされる多くの篇との整合性についてです。仕官をはねつけるというのはある意味痛快な話ですが、さらに考えてみますと、

      自分が亀の神様か、泥を引きずる一匹の亀であるかは自分で決められない、むしろどちらにいたとしても、本当に自分に納得できる生き方を模索していく、これこそ荘子の本意であると、そう思っているからです。

      さらに、陶淵明の飲酒という長編の漢詩の中に出てくる「称心(しょうしん)」という言葉がありまして、これは「自由自在の心境」とか辞書に書いているのですが、実際には単純にそうではなくて、「称」とは天秤のことを指していまして、自分の置かれた環境と自分の気持ちが天秤が釣り合うようにぴったり来る、このときの心の満足のことを指しているとわかりました。

      こういう言葉を単に自分のおかれた運命に従うと解釈するならば、世捨て人ならともかくとして、実際に社会で普通に生きていく上では本当に役に立つことはないのです。この答えで満足できないのが私の気持ちなのです。運命に単に従うなどという考えで満足してしまっているのは、言葉と、言葉を通じて自分の人生と真剣に向き合うことがないからごまかしてしまうのです。風流人を自称する人間が、情けない自分の人生を美化するためにしかこういう文章を読まないからだと、私は時折そう思います。

      調べていく内にそう言うことではない、正しく言えば、それも解の中の一つであって、本当はその環境をじっくりと見つめる中で従うにせよその環境を改めるにせよ、主体的に考えて自分の行動を、生き方を選択していく、その「自分にとってふさわしい環境とのあり方」を模索する中で本当の安らぎが得られるのだと、そういうことがわかってきました。

      『孫子』でもそうですが、昔の文章の具体的なものが何もない中でこういう言葉を手がかりにすると言うのは、具体例は自分の身の回りから探ってきて、そこと古人の言葉を手がかりに本当に満足する答えを考え続け行動し続ける、この過程にしか本当の人間の安らぎは得られないのだと、そう思っています。

      私自身も今日一日何を学びどう過ごすか、常にそのことと向き合いながら過ごしています。私の安らぎは何かを学びそれを批評しながら取り入れていく、そうして心の中に納得したものを分かりやすく書く、この作業の中に得られるものだと思っています。人それぞれ、本当に自分に「適」と思えるものを日々修正しながら求めていく、これが人の生き方なのだと、そんな風に思っています。

      これからもしっかりと学びながら、答えを模索していく一人として生きていこうと思います。これからもがんばっていきます。

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  2. 非常に興味深く拝読いたしました。
    漢文の素養がある方による自由律俳句の句評は、本当に面白いものです。
    大変勉強になりました。

    いつかお手すきの際にでも、他の句についても同様の句評を書いていただければ嬉しい限りです。

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